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昨日初めて談春の高座を生で観た。
いやあ、おもしろかった。
正直この前観た他の噺家とは全然違った。

まくらもすごくおもしろくて、
噺家というのはお笑い芸人と違って、
5分でおもしろい話をするのではなくて
2時間かけておもしろい話をする職業なのだから、
同じ土俵で勝負しても意味がないだとか、
自分は古典をやるけれどそれも王道ではなくて
そこから外れたものをやる。
それらは難しい上におもしろくもないから誰もやらないんだと
半ば自傷気味に言っていたのだけれど、
そうやって忘れ去られてしまったものをもう一度拾い集めて
自分なりの解釈を加えながら現代に甦らせようとする彼の姿勢は
ものすごく共感する部分が多い。

落語というのは基本的に誰かから直接教わった噺しかしてはいけなくて、
元々口から口へと直接受け継がれているものなのだけれど、
そうやって少しずつ変化を遂げながら今までやられてきた。
それがある時点で変化をやめてしまい、
ただ言われたことをやる人間が増えてしまったことに対する危惧から、
立川談志は「伝統を現代に」ということをずっと叫び続けてきた。
落語のストーリーというのは基本的に同じなので、
それぞれの演者がどのように振る舞い、話すのかということが
そのまま違いとなって表れる。
時には表情ひとつ、手の動きひとつですべてを語らなくてはいけない。
そしてそれらの振る舞いというのは生身の人間である噺家の年齢や体調、気分などによっても
もちろん変わってきて、
同時にそれに自覚的である必要である。
談志が志ん朝が亡くなった直後の高座で、
志ん朝はお金を払って観る価値のある数少ない噺家であったけれど
その彼とて歳老いて立ち上がるときにやるよいしょ、という動作が
落語にそのままつながっているのだというところまでは気づいていなかったというようなことを言っていて、
高座というのは噺家が実際の生き様みたいなものを見せつけるところなんだと知らされる。

橋本治が、
テキストの色新しい時代が壁にぶつかっているのなら、それはかつて存在した「重要な古さ」を
見棄てたせいだと思っている。だから私は、「見捨てられたまんまの古さ」に関心がある。
そこで配線が切れていたら、そのコードをつなぎ直す必要はあるんじゃないかと。」
と言っていて、
古いものと新しいものが断絶されている現代の中で、
どうやって両者の関係を再び結びなおすのかというのは
伝統芸能に限らず大きな課題であると個人的には思っているのだけれど、
やっぱり落語なんかを観るとそうゆう微妙な状況を目の当たりにさせられるし、
(観客のほとんどはやっぱりおじいちゃんおばあちゃんだし、)
またその中でいろいろとやろうとしている人たちは応援したくなる。
やっぱり理想は定期的に寄席に足を運んで、
前座から全部を観るということなんだろうなあ。






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